純米@大吟醸

美しいと楽しい、旅と音楽と日々のこと。

がっかりした被災者の言葉から考えた復興とは

 物理的な物事だけでなく、心や失った人のことまで考えると復興が完了することはないと思う。自分で経験していなくても第二次世界大戦の話を聞くと苦しいし、自分の家族に置き換えるし、二度と起こしてはならないと考える。

 だけど、復興の計画と進捗はどうなっているのか。もう十年だし、しっかり知る必要があると思った。と言うのも最近、被災者の発言にがっかりしたからだ。

配慮のない言葉

 テレビで被災地復興の特集を偶然観た。海辺で被災した男性が津波がやってきた時のことを回想する。そして怒って言った。

「丸の内の人たちはあれを見てないでしょ!」

 だから何もわかっていないと。もしかしたら、丸の内でなく霞ヶ関と言いたかったのかもしれない。だけど、現場にいなかった=わかっていないとされるのはどうなのか。その方が柔軟性を失いがちなシニアではなく若い方だったのもあって、私は残念に思った。

 十年前の今日、日本に住む多くの人が人生で初めての恐ろしい経験をした。被災地は東北だけではない。関東も東京もあんなに揺れたのは初めてだったし、亡くなった方もいる。西日本の方は阪神淡路大震災を思い出しただろう。

みんなが怖かった

 どれだけ恐ろしかったかはそれぞれだ。そして、それは他人にはわからない。私はあの日、リフォームした古いマンションにいた。東京都心は震度5弱か強だったけど、阪神の時のニュースで観たように上の階に押しつぶされて死ぬと思った。東京ガスのメーターが震度4以上で自動停止し、ガスが使えなくなることもその時知った。

 夜明けに窓を開けると、郊外の家を目指して歩くサラリーマンの姿がまだ続いていた。地震直後からずっとだ。多摩川隅田川、江戸川。東京に勤める人は千葉、神奈川、埼玉等遠方に住む方も多い。電話もつながらず、家族の状態もわからず。あの日はドンキホーテで自転車がバカ売れしたけど、買えなかった人はおそらく人生の最長距離を何時間もかけて歩いたと思う。しかもスーツに革靴で。

 翌週、大きな余震が続くなか会社に行くと、情緒不安定の乗客の急病や余震などで電車が頻繁に止まる。会社が入る四十階建てのビルはフワフワ船のように揺れ、グルグルと目が回ってしまった。地震が来る警報が鳴るとエレベーターから飛び降りる。ヘルメットをかぶる。計画停電で寒い。何度も警報が鳴って揺れる。

 東京にあって地方にないもの。多すぎる人、高いビル、地下、そうしたものだって十分に人々の不安を煽ったのだ。

災害に備えた

 少し落ち着いてから、関東の実家に様子を見に行った。その時ちょうど震度4強の大きな余震が来たのだけど、庭付きの二階建て戸建では安心感がまったく違っていた。地盤がしっかりしているのかもしれない。だけど、ドアを開ければすぐに拓けた庭。東京で感じた圧死する可能性が低い。母が花を生けた大きな花瓶が棚から落ちないように支える余裕もあった。

 考えて見れば、実家のストレージには食料や生活用品をいくつもストックできる広いストレージがあるし、家庭菜園もあるし、親戚には畑を持って本格的に食べ物を作ってる人がいるし、車も自転車もある。隣近所も昔からの長い付き合い。もし避難所に行っても大きな体育館や公民館に入れてもらえる。

 東京にはそのどれもない。

 そして、都心に住む多くの人には自分でサバイバルする能力がない。

 明日は我が身だ。

 そう思って備えた。私だけでなくて、友人たちもこの十年間でその都度問題点や足りないポイントを確認し、補強してきた。

 まずは引っ越し。住んでいたリノベーションマンション耐震強度が低かったからだけではない。東京は家やマンションが隣接して建つ。つまり自分のマンションだけ新しく耐震が完璧でも、隣が倒れて火事になったら意味がない。だから敷地面積いっぱいに建物があるマンションではなく、中に駐車場や敷地の外に面して庭があるような場所を探した。大きな道沿いを避けたのも同じ理由。首都高等の高架の近くは阪神のことがあるから怖かった。

 次に、ブームもあったけれど、ランニングや自転車に乗るようになった。それほどに密閉された地下鉄に乗るのは怖かったのだ。時間がある時にたびたび歩いて、帰路を確認した。もちろん会社にはスニーカーを置いてある。おしゃれ用ではなく、履かなくなったランニングシューズ。靴の中には山歩き用の快適な靴下も突っ込んである。着替えやタオルもひと組。そして、災害が起こりそうな時は出社しないという選択も思い切って取るようにした。

 そして家の中。もともと背の高い家具は食器棚と冷蔵庫だけ。そういう物は転倒防止の処置をして、戸棚、特に腰より高い位置にあったり割れ物が多い場所には扉ロックをつけた。物も徹底的に整理し、防災用品と備蓄品は家がグチャグチャになっても取り出せるように場所に設置。大きめの地震があった日は花瓶等割れる物は床に直に置いて家を出ることにしている。

 最後は備蓄。震災以降は毎月少しずつお金を使って、防災用品と食料の備蓄を重ねた。前述のとおり、東京の避難場所は収容人数の計算をしていると考えにくく、たらい回しが予想できる。だから家に一、二週間は篭れるよう、阪神大震災を経験した方々とキャンプ大好きな同僚のアドバイスを参考に対策を立てた。そして、どこかで地震が起きるとシミュレーション。それを繰り返した。

先日の大きな地震

 東京の私でもこれだけの対策をした。怖かったし、同じ思いを繰り返したくないからだ。地域の方も企業の方もあの底知れない不安を再び味わわなくていいよう、備えたり訓練の機会を与えてくれている。土地と状況にあったやり方で「あの時ああすればよかった」を克服しているのだ。周りの人間が死んでいないと言わればそれまでだけど、津波を見ていないからわからないと言うのは違う。少しイラっとした。

 そして、先日再び大きめの地震が起きた時のことを思い出した。SNSのタイムラインに流れる動画。福島や宮城の大きく揺れたエリアからだとコメントされた動画に映る家や店は、震災前と変わらない対策しかされていないように見えた。

 揺れて揺れて倒れる棚、その中から転げ落ちる瓶や本、背が高い本棚や食器棚は当然前のめりに倒れている。お酒の瓶を壁いっぱいにディスプレイされたお店はグチャグチャになっていた。

 あれほど怖い思いをしたのに、学ばなかったのですか?

 最初に思ったのはそれだった。仙台に住む友人の家は本や物が少し床に落ちただけだったし、対策済みの方がほとんどであるのはわかってる。だけど、ほんの少しでも危機感なしに生活している方がいることに驚いた。

復興とは、進捗とは

 そしてさらに思う。いつまで“復興”を掲げるつもりなのか。一番最初に書いたように全方位すべての復興は完了することはない。私が考えたのは、戦後の日本、大きな地震で被災した奥尻や神戸や新潟が復興という言葉を使わなくなるにはどれくらいの時間がかかったのだろうか。

 震災の復興についてはなぁなぁになっている部分が多いと思う。なんと言ってもオリンピック。震災の復興であれば東北で東北の人たちによって実施するべきなのに、東京都の税金を使って東京で行うなんて筋が通っていないことは小学生でもわかる。そして復興の特別税。大きな額ではないが、収入のある人は毎年払い続けている。確定申告の度に思う。いったい、いつまで払うのか。

 それもあって東北の復興については計画書と進捗、それに使われた予算を誰でも気づき、わかる形で報告し、意見できるようにしてもらいたい。現時点で私という国民は復興が何を意味しているのか明確にわかっていない。最初から言う全方位の復興については、状況に合わせて時間をかければいい。だけど、しなくてはならないことが何で、今どこまで進んでいるのかを知りたい。そうでないと、復興事業に携わる人がゴールを設置しないまま、他の人と一緒になんとなく歩き続けている人に見えてしまう。

「作ったけど使いませんでした」

は日本のお役人の得意技だ。それは本当に必要なのか、その内容が適切なのかを考えて、ふさわしい予算の使い方をしているか、それらは国民の理解と協力を得られるものなのか、プロジェクトをマネジメントする必要があると思う。

 プロジェクトリーダーはもちろん復興大臣、主要メンバーは復興庁の人たちだ。そのための臨時の庁。この人たちが官民を巻き込んで、みんなが納得いくようプロジェクトを成功に導かなければならない。

 そして、それは自分たちが作ったウェブサイトにペタペタと報告書のPDFのリンクを貼って、SNSで更新のお知らせをすることではない。公務員という職種の人々はどうしてこう上から目線で一方的なコミュニケーションを取るのか、一般企業に勤める私に理解するのは難しい。彼らは私を含む庶民より偉くもなんともないのに。

待ち望んでいるのは

 政治家、公務員に期待するのが無駄なのは残念だ。そんな人たちに文句を言い続けるか、自分で動くか。私はそれは自分次第だと思っている。

 十年前のあの日、一番うれしかったのは神戸の被災者たちのアドバイスだった。最初に大きく長く揺れた直後、何をすべきかわからなかった。とりあえずネットを見る。そんな時、SNS上には自らの体験をシェアし、今すべきことを教えてくれる投稿がたくさんあった。火の元、窓を開ける、靴を履く、ご飯を炊く、お風呂に水……。

 彼らだって思い出したくなかっただろう。だけど、同じ目に遭った人々にたいしてできることをしてくれた。彼らのアドバイスには励まされたと同時に、阪神の震災を忘れないまでも前を向いて生きているんだなと思った。強烈なエネルギーを感じた。

 私にもしてみたいことがある。すごく小さいことなのだけど、近隣住民が集う災害対策ミーティングに参加してみたい。いろいろな人が参加すれば、対策にバリエーションが出るかもしれないし、自分の対策もアップデートできるかもしれない。それに、まったく顔を知らない同じ地域の方と知り合うことは、災害時代を生きるのに大切なことだから。

 東北からそういう声が聞こえてくるとうれしくなる。今日は当時高校生だった子が、自分で復興事業の会社を設立した話を聞いた。自分の体験であってもそうでなくてもいい。一緒にやりませんか、投資しませんか、こちらで会社を興しませんか。そんな風にどんどんと広がって、政府が改善できていない地方再生・創生につながっていったらと思っている。

 

 行方不明の方々がひとりでも多く家族の元へ帰れることをお祈り致します。

 

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42と43:オーストエンデとドーバーの思い出

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 普段はまったく使わないけど、Google Mapには海路も出ている。それで知った。今日書こうと思っていたフェリーが今はもう運行されていないらしいことを。

イギリスに渡る

 ベルギーの西の果てにオステンデという海辺の街があった。Oostendeと書いて、今調べたところ“オーストエンド”と読むらしい。難しいオランダ語?Oが重なるとかわからない。私はそこからイギリスに渡った。外国人の旅行客はおそらく取らないルートで行った理由はたぶん、旅行会社か緑の窓口みたいな所の方にオススメされたから。

 当時は確かユーロスターが開業して数年だった。電車でパリまで行ってユーロスターに乗ればすぐ着くのは知っていたけど、物珍しさよりヨーロッパまで来て日本の新幹線みたいな物に乗ってはおもしろくないという気持ちが勝った。だから私は「何かおもしろい行き方はないか」と尋ねたのだと思う。

 フランスのカレーから海路があるのは知っていたけど、ベルギーからイギリスに行けるのは知らなかった。おもしろそう。それで行く。当時の私はそんなノリだった。若い。

激揺れのドーバー海峡

 だけどフェリーに乗り込むなり、私たちは後悔した。日本にもあるのか知らない大型の船。

 一瞬で船酔いした……(泣)

 私も友達も車に酔うタイプではない。なのにSeacatという名のそのフェリーに足を踏み入れるなり、エンジンの振動だけで酔った。あれは何だったんだろう。

 波がとにかく荒い。私が知っていた波なんて所詮、日本の内海とすぐ前に体験したスウェーデンの海くらいだったから仕方がない。ここの波はそれらの遥か上だった。それ以降にドーバー海峡を泳いで渡る挑戦の話を聞くたびにモンスターだと思うくらい。

 だって、大型のフェリーが揺れまくる。 手で体を支えていないと椅子から転げ落ちそうだった。ものすごく大きく揺れると反対側の窓から海面が見えるくらいに傾いた。こういう遭難映画があったと思う。

MajiでHakiそう5秒前

 だけど、フェリーに乗った人たちは平気みたいだった。このフェリーはどうやら青函連絡船のような交通手段。誰も彼も免税でタバコとお酒を山のように買っていて、客室の真ん中にある大きなバーカウンターでお酒を飲んでいた。私たちが吐きそうだった要因のひとつは、このバーカウンター。普段はお酒好き。だけど、船酔い真っ最中でアルコールの匂いはきつかった。

 寝たくても、揺れて揺れて眠れない。据え付けられたフカフカの椅子とテーブルで横になって寝るツワモノを尊敬した。私は岸はまだかとひたすら耐えて、やっと着いたその時、順番を守って船を降りるのがもどかしかった。

「私、あと五秒で吐く」

と、友達と何度も言い合った記憶がある。吐かなかったのが不思議。どのくらいキツかったかと言うとあれ以来、非常用ポーチに必ずトラベルミンを入れているくらい。そのくらいトラウマになった。

丘に立つドーバー城

 上の絵はドーバーに到着時、港から見えたお城。寒々しい雰囲気の港町だったけど、そのいかにも王子様が助けに来てくれそうな古いお城を見てテンションが上がった。そのままドーバー城と言うらしい。

 コナン ドイルの『ナイジェル卿の冒険』『白衣の騎士団』の時代のお城はこんな感じかと思ったら、こちらは十一世紀に作られたらしい。古い。行ってみればよかったなと今、後悔してる。

 高台の上にお城が建っていることしか覚えていなかったけど、写真を調べてみたら、ただの崖だと思っていたところは人の手が入った砦のようにも見える。町の東側にもダイナミックな崖が広がっているし、ここはもう一度行かないとだ。

 この時はロンドンに行かなくちゃだったから、言われたとおりに電車に乗り換えた。途中通ったカンタベリーも素敵そうだった。ここにもきっとまた行くことだろう。

 

ナイジェル卿の冒険

白衣の騎士団

 

今日の場所は、大吟醸ドラベルの42番と43番。

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41:ブリュッセルの思い出

 飛行機の乗り換えだけで通った街に、陸路で戻ってきた。オランダでゴッホを見てから電車に乗って、夕ご飯の時にはブリュッセルの街を散策していたから三、四時間で着いたのか。インターシティが到着した駅はとてつもなく街のど真ん中にあった気がする。

 ベルギーは国土が確か四国くらいしかない国で、どこに行くにも二時間くらいらしい。だからベルギー人には転勤がないとか。日本で仕事のために家族全員で引っ越したり、単身赴任をするのをすごいと言っていた。

 国土の小ささと駅を出てすぐ繁華街があることの関係性はわからない。とにかく、イメージはブリュッセル駅が原宿駅みたいなイメージ。外に出ると、すぐに観光名所があった。

ワッフルとムール貝

daiginjo travel belgium brussels

 夜に着いた私たちはホテルに荷物を置くとすぐに街に出た。素敵な場所は明日でいい。とにかくお腹が空いていた。おそらくグランプラスの方に行って、気になるお店に入ったのだと思う。私は本当に何の予習もしない人。食べ物やその地域の名産は友達が調べるのが好きだったので、いつも調べてもらっていた。

 友達が選んだメニューはムール貝の白ワイン蒸し。バケツのようなお鍋で出てくるのがおもしろいし、その前に量がすごい。本当にバケツ。それでも確かふたり分だったと思う。絵には描かれていないけど当然ポテトが一緒に出てきて、オランダで食べた物と同じようにホクホクだった。私は美味しそうに見えたブイヤベースを追加。海は見えないけど海の幸がおいしい素敵な街。この頃はそこまでベルギービールブランディングされてなくて、ビールに合う料理なんて話題にならなかったと思う。ベルギーは食の街として知られていたくらい。ソーセージやお肉もおいしいことを知ったのはその後だから、やっぱりまた行かないと。

 お腹いっぱい食べた後は、街を散策。この街も該当がオレンジ色をしていてしっとりきれい。雨で石畳が濡れている様子がやっぱり好きだった。

 その時、まだ開いているカフェからお姉さんが微笑んでいるのが見えた。カフェへの入口とは別にテイクアウトの窓口があるお店。

「デザートにワッフルはどう?」

 素敵。銀座にマネケンがあるおかげで、私もベルギー=ワッフルは知っていた。それにヨーロッパに来る時に乗ったサベナ ベルギー航空でもワッフルが出たし。私たちは「もちろん!」とふたつテイクアウトに作ってもらった。

 平たいお皿の上に乗ったワッフル。でも私が知っているベルギーワッフルと違って四角だった。その上にたっぷりの生クリーム。当時は知らなかったけど、これがブリュッセルスタイルのベルギーワッフルらしい。マネケンのはリエージュという街のスタイル。他にあまりおいしくないらしいアントワープスタイルもあるのだそうだけど、これは私も食べたことがない。

 ブリュッセルスタイルのワッフルは本当においしかった。カリカリの表面に中はしっとり。そしてサイズが大きい。マネケンの二個分強はあったな。生地そのものは甘くなく、乗せられたたっぷりの生クリームで甘みを追加するのが楽しい。お姉さんと雑談をしながら、お店の前で平らげてしまった。

 私の本場のワッフル体験は素敵な思い出だ。

干からびたコンタクトレンズ

 移動の多い旅は刺激に満ちていてアドレナリンが出っ放しなのだけど、それゆえ大失敗をすることがある。オランダでは十万円弱のユーレイルパスを引きちぎったし、今回のコンタクトレンズ干からび事件もそうだ。

 私は目がそこまで悪くはないので日本ではそれほど視力矯正はしないのだけど、鉄道の旅では必ずしてた。駅名、プラットフォーム案内、時刻表のパラパラが見えないから。だけど夜は外す。興奮のまま擦り洗いも適当に、ある朝起きたら持ってきた洗浄液の蓋にカピカピになったコンタクトがくっついていた。この時は使い捨てでないレンズを使っていた気もする。つまり、私はコンタクトレンズの片側を一日使うことができなかった。

(浸しておけば戻るんじゃない?)

 私は楽観的だ。まったく見えない訳ではないのもあるけど、替えのないコンタクトがまずい目に遭っていても動じなかった。そして、ベルギーに着いた翌朝、コンタクトは復活していた。すごい。何もなかったかのように目に入れ、街歩きに出た。何事も諦めてはいけないということを、私は学んだ。

国立美術館と漫画美術館

「100BFで安い」と日記に書いてある。そうだ、この頃はユーロはまだ小切手で出回っていたくらいで、紙幣や硬貨は出回っていなかった。ベルギーはベルギーフラン。あとサンチーム。懐かしいー。

 当時はこの小国のなかでオランダ語を話す人とフランス語を話す人での精神的な小競り合いがあることなんて知らなかったけど、文化的な物事を、特に若者に、安く触れられる機会を作る国はすごいと思っていた。当時の日本は学割がそんなになかった。例えば、携帯料金でauが学割を作ったのはここからさらに数年後のこと。いろいろな所で社会人と同じ料金を払わないとならなかった。だからヨーロッパはすごい。

 特に何の展示物があったのかは忘れたけど、有名な画家の作品がたくさん所蔵されていた。印象が薄いのは、この頃には既にヨーロッパの美術にうんざりしていたからだと思う。

 ヨーロッパで誇らしげに飾られているのは、ほとんどイエス様の絵。痩せ痩けて目が虚ろなイエス様、磔にされて瀕死のイエス様、頭に刺さったイバラの冠から血を流すイエス様……。ヨーロッパ人はこの絵を見て、自分たちの精神的な起源のようなものでも感じるのだろうか。私は不気味さの方を強く感じてしまって、ひどいや悲しいという感情すら湧いてこなかった。

グランプラス

 ここは圧巻だった。世界で最も美しい広場なのではないかと思う。歩きながら建物と建物の間に明るい場所が見えた時、光り輝いているように見えた。四、五階建てくらい建物がグルリと広場を囲んでいるのだけど、建物の装飾が繊細で美しかった。一番上に塔があるスタイル。

 一見お店が入っているようには見えない伝統的な建物なのに、一番下の階には有名なメーカーが入っていたりする。街の景観を崩さないようにする京都みたいな雰囲気。この広場ではさまざまな催し物が開かれるようで、今度はそういう時に訪れてみたいと思った。

 

 大人になってベルギー人とあったり、ベルギーの物事をもっと知るようになったし、改めてじっくり旅したい。アントワープもゲントも電車で通過しただけだし、丸いワッフルがあるリエージュにも行ってみないとと思っている。

 

 今日の場所は、大吟醸トラベルマップの41番。

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私はドゥ ラ メールが効かない (とその他、効果がなかった評判の品々)

 在宅勤務で時間に余裕ができたのか、メイクは軽くでよくなったからか、昨年の今頃は肌そのものをお手入れしたい気分になっていた。そして試した。以前から気になっていた物もいろいろな口コミをしっかり読んで購入した。だけど、今日書くのは効果を感じられなかった物だけ。人の肌はそれぞれなんだなと思った。

ドゥ ラ メール(De La Mer)

a.r10.to

 言わずと知れた高級コスメ。標準サイズの60mlで四万円ほどする。高い。特に乾燥肌の方からの評価が高かったから、混合肌の私は今の今までスルーしていた。

試したきっかけ

 ドゥラメールは高額なのだけど、スキンケアアイテムはトータルで考えると同じように高額。美容液、アイクリーム、クリーム。これを全部足したらドゥラメールひと瓶になるなと思ったから。うるおい、毛穴、シミすべてに万能で効くなんてコメントもあったし。

効果を感じない

 お試しサイズの15mlがあったので購入した。我が家の爪クリームと同じ量(笑)今はスパチュラひとすくいで使い続けて半分を消費したくらい。正直な話、噂にあるとおりニベアな印象。ベタベタするかしないかの違いくらいしか感じない。

  • お肌にふっくらとハリ:変化なし
  • うるおい:逆にうるおいを感じないくらい
  • 毛穴が小さくなる:変化なし
  • キメが整う:変化なし
  • お肌に生命力:生命力がないような見た目
  • ツヤ:マット

 こんな感じ。量が足りないのかと、途中からかなりたっぷり塗っても結果は変わらず。普段から割と効果な美容液やクリームを使っているからかもしれない。だけど、それにしてもな残念感。もう少し庶民価格なデパコスでも翌朝はオオっとなるなと思った。

良いところ

  • 楽天ショップがある。スーパーセールの時はポイントがかなりつくのでお得な気分
  • 寝て起きた朝、顔がベタベタしていない。私はたいていの化粧品で顔がベタベタになる人なので、これはうれしい

 ということで、ドゥラメールを使っても私の肌はまったく良くならなかった。

オバジの一番高い美容液

Obagi(オバジ) オバジ C25セラム ネオ 11,000円

試したきっかけ

 毛穴にはオバジと聞いたから。シミにも効いたらいいなーなんて下心も。

効果を感じない

 一本使い切っても毛穴が改善することはなかった。

良いところ

 初めて使用した次の朝から肌がツルツルになる。表面がツルン♪この感じは今まで使った化粧品や美容皮膚科等でも一番だと思う。

 だけど、ツルツルのためだけに一万円は高い。

メラノCC

メラノCC 薬用しみ・そばかす対策 保湿クリーム Wのビタミン配合 23g 878円

試したきっかけ

 シミに効く、コスパ最強、高い美容液がいらないというコメントがたくさん。

効果を感じない

 一本使ったけど???としか思わなかった。安いから毎回かなり大量に使ったのに。

良いところ

 なし。

 私には全然効果を感じられなかった物。これでいいとコメントしている方は普段どんな化粧品を使っているのか気になったくらい。

KISO キソという化粧水

安定型 ビタミンC誘導体 10%配合 化粧水 APS10 120ml 国産 アプリシステムローションX ビタミンC vitaminc APS アスコルビルリン酸na プロテオグリカン ヒアルロン酸 イオン導入 導入液

 私が購入した物は『グリシルグリシン5% 高配合 化粧水 美容水 KISO キソ GGエッセンス 50ml 肌のキメを整える・肌を引き締める』という商品。長い。なんだろ、この会社。でももうないのか、削除されてるのでメーカーがわかるように似た商品を載せておく。

試したきっかけ

 毛穴がなくなるというコメントを読んだから。

効果を感じない

 毛穴はなくならないどころか、小さくも引き締まりもしなかった。これなら普通に修練化粧水でいいような。匂いがなかったり、液体を肌に乗せた感じが水だった。

良いところ

 ない。

 容器も小さいのになかなかお高いのも困ったものだと思った。

 

 やっぱりシミはレーザー、保湿は水分摂取だと思う。本当に効く化粧品があったら使いたい。後は肌に刺激を与えないこと。今はこれをがんばってやっている。

39:アムステルダムの思い出(その3 フライドポテト)

  アーンヘムからアムステルダムに戻った私たちは、次の目的地に向けて旅立つ。駅を近くを歩いていた時、見たことのない食べ物が売られているのが目に入った。

daiginjo travel netherland amsterdam fried potatoes

 こういうポテト。

 今となっては、それがベルギースタイルのフライドポテトの食べ方であることは知っている。だけど、この時は人生で初めて見た物だったから驚いた。

 おもしろがってサイズはラージを選択。でも日本のラージじゃない。スポーツの応援で使うメガホンをひと回り小さくしたくらい。オランダは人のサイズが大きいからそうなるのだろうか。

 そういえば、昔の映画館や遊園地で売られていたポップコーンやスナックにこんな物があった。円錐を逆さにした紙に食べ物を入れている。オランダのフライドポテトはその中にフライドポテト。そして、一番上にはポテトが見えないくらいのマヨネーズ。

 確かソースにはいくつもの種類があった。パプリカとかガーリックとか。この時選んだのはシンプルな普通のマヨネーズ。私はそんなにマヨネーズ好きではないのだけど、この食べ方は斬新だったから気に入った。日記には手をベタベタにしながら食べたと興奮が記されていた。

 日本のじゃがいもともアメリカのポテトとも違うじゃがいもだと思う。ホクホク感は男爵で長さがあったからたぶん形はメークイン。一本が一センチ角くらいあったと思う。ジャンクフードなのにすごくおいしくてたまらなかった。

 だからと言って、家でフライドポテトを食べる時にマヨネーズをつけるようになりはしなかった。逆にフライドポテトにつけて食べるために、シェフがマヨネーズを手作りしてくれる、そんな機会に恵まれるようになった。これが激ウマ。ポテトもマヨネーズも食べきれない分を持ち帰られてもらったくらい。

 旅行をする時のあまりの準備のしなさに驚くけれど、だからこそこうして衝撃的な感動に出会うことができる。映画とかも前情報なしに観た方がおもしろさを感じるものだ。

 今日の場所は、大吟醸トラベルマップの39番。

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40:クレラー ミュラー美術館の思い出

 ここの絵も描きたい。そう思うくらいに日本にはなく、覚えていたい風景だ。

 翌日、私たちは電車に乗ってアムステルダム近郊の街、アーンヘムに来た。朝に都市間を移動すると新聞とコーヒーを手にするお勤めの方を多く見たのだけど、この路線はずっと朗らかだった。でも観光客もいない。

いきなりド田舎

 アーンヘムの駅から美術館まではそこそこ距離があった。ガイドブックに行き方が乗っていたかもわからない。だって駅に降りただけで、ゴッホ美術館のように誰もが行く場所でないことは明らか。人がいないからタクシーもない。私たちはバスで行けることを知り、お目当のバスに乗り込んだ。

「クロラーミュラー美術館に行きたいのですが、このバスで行けますか?」

 もちろん聞く。運転手さんがオランダ語で答えてくれる。だけど、このローカル運転手さん、寡黙な方で無駄な動作も一切ない。身振り手振りでYes Noを示したりもしないので、行けるのか行けないのかはっきりとはわからなかった。江戸時代のエリートでもあるまいし、今のいち日本人がオランダ語ネイティブとオランダ語で会話をするのはハードルが高い。

 なんとなく大丈夫そうなので、運転手さんの近くの席に座った。ゆったりと土地が広い住宅街を抜ける。緑が日本より明るい、絵の具の緑みたいな色をしている。車内に人はそれほど乗っておらず、静かだった。アムステルダムとはまったく違う朗らかさ。

 Google Mapがない時代、ランドマークがないこういう場所では今どこを通っているのかはわからなかった。だから降りる場所を見逃さないためにボンヤリはしていられない。結構時間が経って、いきなりおじさんがこちらを振り返った。言っている言葉はわからないけど、たぶんここが美術館への停留所だと教えてくれているのだと思った。

 私たちはありがとうを言ってバスを降りた。美術館は見えない。田舎の道端に立つ停留所。澄んだ空気を吸い込みたくなるような場所だった。

まるでネロが歩いた道

 今Google Mapで検索するとこの停留所の場所はオッテルローではないかと思う。そして、ここでバスを乗り換えると美術館がある公園の入口まで行けるらしい。当時もあったのだろうか。と言うのも、私たちは誰かに聞いて公園の入口まで歩いた。タクシーはもっと見当たらなかったし。

 だけど、ここの道は旅の中でも十本の指に入る思い出深い道だ。絵に描いたようなヨーロッパの田舎の風景。『フランダースの犬』はベルギーの話だけど、ネロがパトラッシュと市場へ向かって歩いた道みたいだったから。舗装はされていたかどうか。小道と背が高い常緑樹、それとたまにコンクリートでない小川があったと思う。土が凹んでいてそこに水が流れているタイプの川。あと乳牛がいる場所もあった。そうそう、ここに行く時のバス停には牛乳の広告がいっぱいあったのを覚えている。

 途中でたいして人にも会わない。どのくらいかかったかも忘れたけど、おしゃべりをしながら陽気に歩き続ける私たち。遠くに公園の門が見えた時、後ろから観光バスに抜かれた。そうか、ここに行く人はこうしてツアーのバスで行くのかと納得。そのバスに乗っていたのは地元の子供で、学校の社会科見学みたいな授業で訪れているらしかった。ここにもまた行きたいな。

行っても行っても着かない美術館

 美術館は公園の中にある。公園と言っても国立公園。上野の森のようにコンクリートで整備された公園ではなく、代々木公園でもセントラルパークでもなかった。緑もあるのだけど、もっと荒野で先がわからない感じ。日本にはない国立公園だった。

 公園の入口にあるチケット売場でチケットを買って、この先もまぁまぁ距離があることを知った。さっきの観光バスは人を乗せたまま、さらに奥まで走っていった。なるほど。

「そこの自転車を使っていいのよ」

と窓口の方。

 見ると自転車置き場に白い自転車がたくさん置かれている。余裕だ。これで行く。雨が降ったのか、緑が多い故の朝露か、自転車は少し濡れていた。自転車には鍵も識別番号のような物もなく、好きな物を適当に選んで乗っていいらしかった。

 で、ここで問題発生。自転車に乗ると足が地面に着かない(笑)前述のとおり、オランダ人は身長が高い。女性でも180cmを越している。男性はもっと高い。国民全員がオリンピックのバレーボール代表で、NBAのスター選手みたいな国なのだ。おまけに欧米人の方が日本人より足が長いのだから…私たちは大爆笑で困った。

「こっちのは子供用かな?」

 友達が小さめの自転車を見つけた。確かに小さい。といっても、普通の日本の大人用。オランダ人の子供も大きいのだろう。悔しい気持ちよりも笑いが勝っていたのは若かったからだろうか。大人な私たちはそれに乗り、自転車を漕ぎ出した。

 気持ちがいい。鬱蒼とした緑のトンネルや、白い石が転がる広い原っぱを眺めながら自転車を漕ぎまくる。ちなみに、ここの自転車にはギアがなかった。国立公園という土地柄アップダウンがあったから登りがきつい。それでも鼻歌を歌いながら、ついつい漕いでしまうくらいに楽しかった。

 ただし着かない。観光バスが通る直線の道路ではなく、サイクリングや散策用のコースを通っていたのかもしれない。やっと、少し登った丘の上にある美術館の建物に着いた時はもうお昼になっていた気がする。

緑っぽかった絵

 クレラー ミュラー美術館はカジュアルな雰囲気の美術館だった。外の素晴らしい自然を遮断せず、大きなガラス窓から外が見えていたと思う。窓が開いていたら良い匂いがしそう。

 歩いてそれを角を曲がると作品、そんな感じ。ある角を曲がった時、『夜のカフェテラス』があった。作品が展示されている場所は少し奥まっていて、たくさんの光は入らない。それにもかかわらず、ポォっと光を放っているように見えた。

 思っていたとおりの大きさ、カフェのテラス席でおしゃべりをする人々の声が聞こえてきそうな臨場感。生きているようだった。あと圧倒的な黄色と青。この絵は星の白も好き。でも、色は思っていたより全体が緑っぽかったのが印象的だった。

 絵なんてどこで見たって同じだと考える人もいると思う。今だったらネット上でも見られる。だけど、自分の目で見ると結構違うもの。油絵の場合はひと筆ひと筆の使い方、特にゴッホは絵の具が厚いから塗りたくられ盛り上がった絵の具を観察するのが楽しいのだ。

 それと、絵を見ながら思いを巡らすのが好きだ。描いた人はどんな状況だったのか、何を思っていたのか。昔に描かれた物がそのまま残っているのもすごいなとか。ここでもいろいろ考えた。まさか、こんなに遠くまで来られると思っていなかった。偶然知ったことで自分の目で見ることができたのがうれしくて、長い時間をこの絵の前で費やしたと思う。おかげで他の展示品のことをサッパリ覚えてない。

 

 この旅から何年か過ぎた頃、『夜のカフェテラス』が日本にやってきた。なんでよと心で叫んだのは言うまでもない。それでもやはりまた行ってしまって、特別扱いされていなかった現地とは違い、目玉作品として持ち上げられグッズも作られた様子を堪能してきた。

 

今日の場所は、大吟醸トラベルの40番。 

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面倒だと言われるポテサラを作って思ったこと

 前にポテトサラダについて一悶着あった。

 普段料理をしなそうな人の発言が普段料理をする人たちの怒りを買った。そんな感じだったと思う。私はそこまでポテトサラダを愛している訳ではないけれど、何年か一度くらいは食べたくなって買う。こういう物は作り手のこだわりが出るものだ。違うお店で買えば、それだけバリエーションを知ることができるから買っていた。もちろん単純に作るのがめんどうだという理由もある。

 だけど今日は作ってみた。

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【結論】ポテサラ作りはそこまで面倒ではない

 確かに面倒くさい。だけど面倒な社内政治とマウント合戦、面倒な顧客用の提案や火消しをすることを考えれば、ずっと楽。ポテサラは食べられるし。それが私が思ったこと。そして、途中でつまみ食いをしながら作るのは思っていたより楽しかった。

なんで作った

 北海道直送のじゃがいもが手に入ったから。ホクホク度が半端ないじゃがいも。最初は茹でてバターをつけたりベイクドポテトにしたりして食べていたんだけど、ある時「これはポテトサラダにするべきだ」とひらめいた。それで作った。

面倒たる所以

 作って見て感じたこと。面倒だと思ってしまうのは、たぶん茹でたお芋を冷ますのに時間がかかるから。熱々のまま作業を進めればマヨネーズが溶けてしまう。あとは先にゆで卵を作って置くことも忘れそう。固茹でだから微妙に時間がかかる。慣れればドンドン作れそう。

 参考にしたレシピは敬愛する冨田ただすけさんの物。

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作るといいこと

 できたてもおいしいけど、冷蔵庫から出したての冷えたポテトサラダも好きな私はおかしいかもしれない。だけど、ポテトサラダのいいところはそこ。一度作っておけば数日は食べられる。作り置きのおかずがひとつ冷蔵庫にあると、ごはん作りもお弁当作りもグンと楽になる。小腹が減った時にひと口食べるのも好き。なぜかビールにも合うし。

「ポテサラくらい作れ」と言われたら

 お惣菜を買ってきて盛り付け直して「手料理♡」と言う都市伝説の人、本当にいるのかな。しもしないくせに料理が楽で簡単だと思ってる人に言われたら、迷うことなくこの都市伝説の人になろうと思う。少ない量だと買った方が節約にもなる。

 それか、やってTRYに出てもらう。

【教訓】

 仕事上で起こる面倒なことは、極めて面倒だ。原因はほとんど全員がイヤイヤやっているのと、自分たちですべきことを他人にさせているから。とはいえ、ほとんどすべての会社員はイヤイヤでもするしかない。変えるべきは結局ここだな。自由意志で作っておいしく食べられるポテトサラダを作りながら、決意を新たにした。