純米@大吟醸

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がっかりした被災者の言葉から考えた復興とは

 物理的な物事だけでなく、心や失った人のことまで考えると復興が完了することはないと思う。自分で経験していなくても第二次世界大戦の話を聞くと苦しいし、自分の家族に置き換えるし、二度と起こしてはならないと考える。

 だけど、復興の計画と進捗はどうなっているのか。もう十年だし、しっかり知る必要があると思った。と言うのも最近、被災者の発言にがっかりしたからだ。

配慮のない言葉

 テレビで被災地復興の特集を偶然観た。海辺で被災した男性が津波がやってきた時のことを回想する。そして怒って言った。

「丸の内の人たちはあれを見てないでしょ!」

 だから何もわかっていないと。もしかしたら、丸の内でなく霞ヶ関と言いたかったのかもしれない。だけど、現場にいなかった=わかっていないとされるのはどうなのか。その方が柔軟性を失いがちなシニアではなく若い方だったのもあって、私は残念に思った。

 十年前の今日、日本に住む多くの人が人生で初めての恐ろしい経験をした。被災地は東北だけではない。関東も東京もあんなに揺れたのは初めてだったし、亡くなった方もいる。西日本の方は阪神淡路大震災を思い出しただろう。

みんなが怖かった

 どれだけ恐ろしかったかはそれぞれだ。そして、それは他人にはわからない。私はあの日、リフォームした古いマンションにいた。東京都心は震度5弱か強だったけど、阪神の時のニュースで観たように上の階に押しつぶされて死ぬと思った。東京ガスのメーターが震度4以上で自動停止し、ガスが使えなくなることもその時知った。

 夜明けに窓を開けると、郊外の家を目指して歩くサラリーマンの姿がまだ続いていた。地震直後からずっとだ。多摩川隅田川、江戸川。東京に勤める人は千葉、神奈川、埼玉等遠方に住む方も多い。電話もつながらず、家族の状態もわからず。あの日はドンキホーテで自転車がバカ売れしたけど、買えなかった人はおそらく人生の最長距離を何時間もかけて歩いたと思う。しかもスーツに革靴で。

 翌週、大きな余震が続くなか会社に行くと、情緒不安定の乗客の急病や余震などで電車が頻繁に止まる。会社が入る四十階建てのビルはフワフワ船のように揺れ、グルグルと目が回ってしまった。地震が来る警報が鳴るとエレベーターから飛び降りる。ヘルメットをかぶる。計画停電で寒い。何度も警報が鳴って揺れる。

 東京にあって地方にないもの。多すぎる人、高いビル、地下、そうしたものだって十分に人々の不安を煽ったのだ。

災害に備えた

 少し落ち着いてから、関東の実家に様子を見に行った。その時ちょうど震度4強の大きな余震が来たのだけど、庭付きの二階建て戸建では安心感がまったく違っていた。地盤がしっかりしているのかもしれない。だけど、ドアを開ければすぐに拓けた庭。東京で感じた圧死する可能性が低い。母が花を生けた大きな花瓶が棚から落ちないように支える余裕もあった。

 考えて見れば、実家のストレージには食料や生活用品をいくつもストックできる広いストレージがあるし、家庭菜園もあるし、親戚には畑を持って本格的に食べ物を作ってる人がいるし、車も自転車もある。隣近所も昔からの長い付き合い。もし避難所に行っても大きな体育館や公民館に入れてもらえる。

 東京にはそのどれもない。

 そして、都心に住む多くの人には自分でサバイバルする能力がない。

 明日は我が身だ。

 そう思って備えた。私だけでなくて、友人たちもこの十年間でその都度問題点や足りないポイントを確認し、補強してきた。

 まずは引っ越し。住んでいたリノベーションマンション耐震強度が低かったからだけではない。東京は家やマンションが隣接して建つ。つまり自分のマンションだけ新しく耐震が完璧でも、隣が倒れて火事になったら意味がない。だから敷地面積いっぱいに建物があるマンションではなく、中に駐車場や敷地の外に面して庭があるような場所を探した。大きな道沿いを避けたのも同じ理由。首都高等の高架の近くは阪神のことがあるから怖かった。

 次に、ブームもあったけれど、ランニングや自転車に乗るようになった。それほどに密閉された地下鉄に乗るのは怖かったのだ。時間がある時にたびたび歩いて、帰路を確認した。もちろん会社にはスニーカーを置いてある。おしゃれ用ではなく、履かなくなったランニングシューズ。靴の中には山歩き用の快適な靴下も突っ込んである。着替えやタオルもひと組。そして、災害が起こりそうな時は出社しないという選択も思い切って取るようにした。

 そして家の中。もともと背の高い家具は食器棚と冷蔵庫だけ。そういう物は転倒防止の処置をして、戸棚、特に腰より高い位置にあったり割れ物が多い場所には扉ロックをつけた。物も徹底的に整理し、防災用品と備蓄品は家がグチャグチャになっても取り出せるように場所に設置。大きめの地震があった日は花瓶等割れる物は床に直に置いて家を出ることにしている。

 最後は備蓄。震災以降は毎月少しずつお金を使って、防災用品と食料の備蓄を重ねた。前述のとおり、東京の避難場所は収容人数の計算をしていると考えにくく、たらい回しが予想できる。だから家に一、二週間は篭れるよう、阪神大震災を経験した方々とキャンプ大好きな同僚のアドバイスを参考に対策を立てた。そして、どこかで地震が起きるとシミュレーション。それを繰り返した。

先日の大きな地震

 東京の私でもこれだけの対策をした。怖かったし、同じ思いを繰り返したくないからだ。地域の方も企業の方もあの底知れない不安を再び味わわなくていいよう、備えたり訓練の機会を与えてくれている。土地と状況にあったやり方で「あの時ああすればよかった」を克服しているのだ。周りの人間が死んでいないと言わればそれまでだけど、津波を見ていないからわからないと言うのは違う。少しイラっとした。

 そして、先日再び大きめの地震が起きた時のことを思い出した。SNSのタイムラインに流れる動画。福島や宮城の大きく揺れたエリアからだとコメントされた動画に映る家や店は、震災前と変わらない対策しかされていないように見えた。

 揺れて揺れて倒れる棚、その中から転げ落ちる瓶や本、背が高い本棚や食器棚は当然前のめりに倒れている。お酒の瓶を壁いっぱいにディスプレイされたお店はグチャグチャになっていた。

 あれほど怖い思いをしたのに、学ばなかったのですか?

 最初に思ったのはそれだった。仙台に住む友人の家は本や物が少し床に落ちただけだったし、対策済みの方がほとんどであるのはわかってる。だけど、ほんの少しでも危機感なしに生活している方がいることに驚いた。

復興とは、進捗とは

 そしてさらに思う。いつまで“復興”を掲げるつもりなのか。一番最初に書いたように全方位すべての復興は完了することはない。私が考えたのは、戦後の日本、大きな地震で被災した奥尻や神戸や新潟が復興という言葉を使わなくなるにはどれくらいの時間がかかったのだろうか。

 震災の復興についてはなぁなぁになっている部分が多いと思う。なんと言ってもオリンピック。震災の復興であれば東北で東北の人たちによって実施するべきなのに、東京都の税金を使って東京で行うなんて筋が通っていないことは小学生でもわかる。そして復興の特別税。大きな額ではないが、収入のある人は毎年払い続けている。確定申告の度に思う。いったい、いつまで払うのか。

 それもあって東北の復興については計画書と進捗、それに使われた予算を誰でも気づき、わかる形で報告し、意見できるようにしてもらいたい。現時点で私という国民は復興が何を意味しているのか明確にわかっていない。最初から言う全方位の復興については、状況に合わせて時間をかければいい。だけど、しなくてはならないことが何で、今どこまで進んでいるのかを知りたい。そうでないと、復興事業に携わる人がゴールを設置しないまま、他の人と一緒になんとなく歩き続けている人に見えてしまう。

「作ったけど使いませんでした」

は日本のお役人の得意技だ。それは本当に必要なのか、その内容が適切なのかを考えて、ふさわしい予算の使い方をしているか、それらは国民の理解と協力を得られるものなのか、プロジェクトをマネジメントする必要があると思う。

 プロジェクトリーダーはもちろん復興大臣、主要メンバーは復興庁の人たちだ。そのための臨時の庁。この人たちが官民を巻き込んで、みんなが納得いくようプロジェクトを成功に導かなければならない。

 そして、それは自分たちが作ったウェブサイトにペタペタと報告書のPDFのリンクを貼って、SNSで更新のお知らせをすることではない。公務員という職種の人々はどうしてこう上から目線で一方的なコミュニケーションを取るのか、一般企業に勤める私に理解するのは難しい。彼らは私を含む庶民より偉くもなんともないのに。

待ち望んでいるのは

 政治家、公務員に期待するのが無駄なのは残念だ。そんな人たちに文句を言い続けるか、自分で動くか。私はそれは自分次第だと思っている。

 十年前のあの日、一番うれしかったのは神戸の被災者たちのアドバイスだった。最初に大きく長く揺れた直後、何をすべきかわからなかった。とりあえずネットを見る。そんな時、SNS上には自らの体験をシェアし、今すべきことを教えてくれる投稿がたくさんあった。火の元、窓を開ける、靴を履く、ご飯を炊く、お風呂に水……。

 彼らだって思い出したくなかっただろう。だけど、同じ目に遭った人々にたいしてできることをしてくれた。彼らのアドバイスには励まされたと同時に、阪神の震災を忘れないまでも前を向いて生きているんだなと思った。強烈なエネルギーを感じた。

 私にもしてみたいことがある。すごく小さいことなのだけど、近隣住民が集う災害対策ミーティングに参加してみたい。いろいろな人が参加すれば、対策にバリエーションが出るかもしれないし、自分の対策もアップデートできるかもしれない。それに、まったく顔を知らない同じ地域の方と知り合うことは、災害時代を生きるのに大切なことだから。

 東北からそういう声が聞こえてくるとうれしくなる。今日は当時高校生だった子が、自分で復興事業の会社を設立した話を聞いた。自分の体験であってもそうでなくてもいい。一緒にやりませんか、投資しませんか、こちらで会社を興しませんか。そんな風にどんどんと広がって、政府が改善できていない地方再生・創生につながっていったらと思っている。

 

 行方不明の方々がひとりでも多く家族の元へ帰れることをお祈り致します。

 

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